大永建設の歴史

こんにちは。
株式会社大永建設 代表取締役の佐藤一博です。

IMG_0989のコピー創業1838年、180年以上の歴史を数える大永建設は、
おかげ様で、私、佐藤一博で7代目となりました。

このページでは、そんな大永建設の歴史を振り返りながら、
私、佐藤一博が現代の皆様に提供したい、
「これからの家族の暮らしをデザインする家」
「体感の贅沢 山形の気候に合ったあったかい家」
をつくるに至った背景とその想いをお伝えしたいと思います。

私ごとで少々お恥ずかしい面もお見せすることにもなると思いますが、
ただの歴史ではなく、これから家づくりをするお客様にとって少しでも参考になればとの想いで書かせていただきましたので、どうぞ最後までお付き合いください。

 


 

創業から続く、大工の伝統

 

「現場は、キレイに、何度も教えたろうが!」

「ハイッ、気をつけます!」

「キレイな仕事は大工の基本だぞ」

大永建設という名称は、
代々続く大工の5代目 佐藤永蔵が名づけた工務店です。
その当時、地元で「大工の永蔵」といえばその名を知らない人はいないほどで、
腕前も有名な大工だったようです。

大永建設の原点、それは大工の仕事。

その原点を忘れずに、時代時代に合わせた家づくりをしてきました。
手前味噌ではありますが、この山形県で7代続く工務店はありません。

こうして今でも家づくりの仕事をしていられるのは、
「この山形の地を離れず、家づくりを続けていく」という強い信念の元、
苦しい時代には、身を縮めて地道にコツコツと仕事を、
逆に、時代が追い風になっても欲を出さず、
大工の仕事を続けてきたからだと思います。

私も、この先祖代々続く伝統を守りつつ、
これから新しい家で新しい暮らしを始める未来の家族のために、
“あったかい家”をテーマに家づくりを応援していきたいと思っています。

大永建設の家づくりのテーマ“あったかい家”
このテーマは、私があるお客様から頂いた言葉を元につくったテーマです。

ではなぜ、
私がこのテーマに辿り着いたのか、そのことについてお伝えしたいと思います。

 

大工と暮らした、幼少時代

 

遡ること…何十年前でしょうか。

もう、忘れてしまいそうなくらい前のことですが、
私にも、幼少時代というものがありました(笑)

幼少時代の私の性格は、特段社交的だったわけでもなく、
おとなしくしていたつもりだった…のですが、
周りから推薦され、応援団員をやるなど、気づいたら目立っている存在だったようです。

「ただいま!」

学校が終わって家に帰ると、我が家には大工が迎えてくれました。
当時、住み込みの大工が6人。
朝・昼・晩は、その大工さんと一緒にご飯を食べ、
寝泊まりを共にする、そんな生活でした。

ちなみに、今でも第一線で活躍している佐藤大工は当時からの付き合い。
私の小さな頃から知っている、大先輩です。

実は、当時の佐藤家は非常に貧乏でした。
大工の事業自体は順調だったのですが、親族のトラブルで借金を抱え、
仕事をしては返済の日々。ムードは暗くなり、ご飯も豪華ではありませんでしたが、
ただそんな貧乏生活の中でも、家族や大工に囲まれ、人のあたたかみを感じながら、
過ごした日々を覚えています。

 

18歳で東京へ修業、22歳で県庁の建築行政科へ

 

「自分もいずれこの会社を継ぐことになる」

そう考えていた私は、
山形工業高校の建築科に入学(当時の倍率が高く猛勉強しました)。
18歳の時に上京、東京都足立区のゼネコンで4年間、現場監督として働きました。

その4年間の思い出といえば、正直言いますと…

辛かった…

この一言に尽きます。
しかし、同時に、

糧になった。

今思えばそんなことも言えるかもしれませんが(笑)、
当時は、人口増、景気上昇、
とにかく建物を建てまくれ!という時代でした。

“人”という存在を大切にする文化もなく、
このページでは書けないほど厳しい指導は続き、
当時の同期は誰もいなくなり、
後半は後輩の盾となって耐える日々が続きました。

今となっては…ですが、貴重な経験をさせて頂きました。

ーーー地元に帰って、県庁の建築行政へ

22歳の時、ゼネコンを辞め、私は地元に帰ってきました。
大永建設に戻るという考えもなかったわけではありませんでしたが、

資格取得を目指していたこともあり、
もう少し勉強したい!という思いで、
当時、新庁舎を建築するために、県庁の建築士が不足していました。
そこで、採用試験を受けて合格し、働くことになりました。

ここでしっかり勉強して…

そんな想いで県庁では永く働くつもりでしたが、
4年3ヶ月が経った25歳の時、図らずも大永建設に戻ることになったのです。

 

26歳、大永建設に入社

 

私が大永建設に戻ったのは、当時社長だった父親が倒れたのが理由でした。
その時は、大事にならずに済んだのですが、
(実は、鼻のガンだと思っていたら蓄膿症という診断でした…)
それがきっかけで、大永建設に戻ることを決意したのです。

当時25歳、その後27歳に結婚をし、
公私共に将来に向けた大きな一歩を踏み出しました。

ちなみに私には弟がいるのですが、
私の弟は東京に営業所を出し仕事をしています。
そんな佐藤家の転換期がこの時期だったのです。

 

家づくりの研究、北海道で出会った感動の家

 

“あったかい家”

その原点を見つけたのは今から30年以上前、平成2年のことでした。
場所は北海道、ある住宅を見て私は感動を覚えたのです。

その住宅は北海道の土地柄ならではの、暖かい家。
そして、これからの家づくりには欠かせないあるものを備えた家でした。

私は、その家に入った瞬間、
幸せな気持ちになる“あたたかさ”を感じました。

同時に、その広さに驚きました。
広いリビングに高い天井。

それを見た時、ビビっときました。
このリビングで、家族が団欒を楽しむイメージがパッと浮かびました。

私が幼少の頃、
家族と大工に囲まれて感じた、あのあたたかみ。
それが現代でも感じられるのではないか…

この家なら家族の絆を育む家をつくれるのではないか。

こういう家をつくることこそが家づくりのプロとしての使命ではないか。

その家を見ながら、
ワクワクする自分に気がついた私は、
同時に建築のプロの立場としてあることを思いました。

(そのようにやってしまうと、暖房代がバカにならない。
 一体どうやってまかなっているのだろう…)

でも、極寒の地・北海道で実際にそのような家があるのだから何か工夫があるに違いない、
こんな家を自分たちでも必ずつくるんだ!
そう固い決意をした私は、その家のつくり方(工法)について、
徹底的に研究しました。

 

 

その工法は、外からの寒気を遮断し、中の暖めた空気を逃がさないという、
いわゆる気密性を最大限にまで高めた工法で、
家全体を断熱性・気密性の高い箱で囲ってしまうことにより、
少ないエネルギーで家全体を暖めることができ、
結果的に光熱費を抑えて
暖かい広いリビングが実現できる工法でした。

FP工法というその工法は、
それ以来、私たちの“あったかい家”づくりには欠かせない工法として、
今では、たくさんのお客様に喜ばれる家づくりとして自信を持ってご提案させて頂いています。

 

住んでみないとわからない? 伝わらなかった感動の住まい

 

FP工法“あったかい家”は、
私が代を引き継ぐにあたってのシンボルのような工法でした。

そんなこともあって、
積極的にこの家を紹介しました。

まずは社内でもこの家を知ってもらわなければ…と思い、
慰安旅行と称し、2年連続で家の勉強をしに北海道へ行きました。

平成4年には、自宅をFP工法で建て、
5年間モデルハウスとしてお客様にも見せました。

そんな中で一つ、困ったことがありました。

それは、この家の良さが、
住んでみないとわからない
ということでした。

家が暖かいこと、
光熱費がかからず快適に暮らせること、
広いリビングは家族の団欒をつくること、

このことは家に住んでもらわなければ実感しづらい。
ということでした。

もちろん、
その家に住んでくれたお客様にはその良さを実感して頂いて、
喜びの声を頂くことができましたが、
家を建てる前のお客様には、
その良さ、私の想いを中々伝えることができませんでした。

大工の気持ちとしては、
住んで頂いてからその良さをわかって頂ければ充分なのですが、
現実問題、その前に選んでいただかなくては建てることができません。

なんとかしなければ…

大工性分な私は、
巧みな話術でお客様に伝えることはできません。

価格競争では、
ローコスト住宅にはかないません。

試行錯誤の中…

なんで伝わらないんだ…

諦めるしかないのか…

恥ずかしながら、そんな気持ちになることもありました。
そんな時、私の気持ちを救ってくれたあるお客様が現れたのです。

 

「あったかいことは、銭・金じゃねぇ!」

 

そのお客様は、
2世帯同居を望まれていたお客様でした。
順調にプランを立て、
私たちの提案したFP工法もすんなり採用して頂きました。

当時、もちろん暖かい家を望まれてはいましたが、
その家がどれくらいのものかはわからず、
私たちを信じて採用してくれたんだと思います。

着工、上棟、お引渡しをしてお客様の暮らしが始まりました。
あるとき、そのお客様に伺う機会がありご主人に感想を聞きました。

すると…

「あったかいことってのは、銭・金じゃねぇなぁ」

その言葉を聞いた時、
私は涙が出そうになりました。

ご主人は今まで、
廊下が寒いからとなるべく部屋に閉じこもっていました。
新しい家に住んでから廊下まで暖かくなり、
積極的に出歩くようになり、
結果として「健康」になってきたそうです。

そんな効果を実感してのこの一言は、
私がこの家づくりを通じてお客様に提供したかったこと正にそのままでした。

私はその一言に自信を持ちました。
同時に、伝えられないという弱気な気持ちが吹っ飛び、
伝えるんだ!という強い気持ちに変わりました。

・体感が必要なら、実際に体感してもらおう「宿泊体験」
・まずは、私たちのことを知ってもらおう「大ちゃん新聞」
・デザインや住み心地の面から“あったかい家”をご提案する「一級建築士によるご提案」

お客様に伝えるための手段に試行錯誤、
徐々にその認知・良さをわかってくれる人も増えてきたように感じます。

 

住んでから満足してもらえる家をこれからも

 

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大永建設の“あったかい家”は、
住んでからの幸せをつくる家です。

感動をつくる家です。

実際に住み始めたお客様には大きな満足を頂き、
その後の関係も特に良くしていただいています。

私には、夢があります。
それは、大永建設が、家づくりを通じて、

お客様に感動を与えられる会社でありたい。

という夢です。
お客様に感動を与えられる会社として、
地域NO.1になりたいと思っています。

そんなお客様と永く繋がっていたいと思っています。

私たち、大永建設はそんな想いを胸に、お客様と向き合い、
お客様が満足できる“あったかい家”をつくり続けていきます。

長文お読み頂き、誠にありがとうございました。

創業180年の大永建設、
まだまだ未熟な部分はたくさんありますが、
引き続き、ご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

 



代表取締役 佐藤 一博(さとう かずひろ) プロフィール

・名前    :佐藤 一博(さとう かずひろ)
・生年月日  :1950年8月22日
・星座    :おとめ座
・血液型   :O型
・資格、特技 :一級建築士、一級建築施工管理士、宅地建物取引士、建築主事資格試験合格
・休みの日の過ごし方:映画鑑賞やコンサート。
コンサートのために遠出をすることも。
最近は専らDVD鑑賞が多く、たまには外に出たいなぁと思っている。
(世界一周旅行に行きたいという夢もあるとかないとか…)